2008/11/01

西日到来

朝からの大風が秋の雲たちをすべてどこかへ吹きやってしまった。
そんなわたしは最近酒ばっかり飲んでいて、そもそものところ、酒なんてこれっぽっちも好きなわけじゃないのに、状況に飲まれ、ぼんやりと働かないあたまを抱えながら、こんな中途半端な時間に洗濯機回しながらスピッツを聴いて、こうしてきまぐれに文章を書いています。

自分ていったいなんなんだろうなんて、こどもじみた疑問、今さらこんなところで語りたくないけど、自分が十分に発揮されている、って感覚と、そうじゃない感覚とがあって、一緒にいる人たち、その場、かかっている音楽、話題、そこで使われている言葉、そこでよしとされている「言葉の選び方」の暗黙のルールみたいなもの、そんな表面的・非表面的なありとあらゆるものに、すんなり水のように親和し、おだやかで泰然とした気持ちをもっていられるときと、ごつごつと居心地の悪い、自分の声すらどこか違う場所から聞こえてくるような空々しさを感じられるときとがあって、それはいったいなんなんだろうと思いながら、結局のところ、あたまで考えるより、からだが答えを知っているような気がするんだよなぁ、と、茶を一口。

からだの感覚というものは、よくよく考えてみれば不思議なもので、例えば、誰かの手に触れたとする。
自分以外の、体温を持った存在を触っているという違和感、そしてそれを、瞬時に、なんのとっかかりもなくここちよく感じたり、何かこう、気持ちが冷え冷えするような嫌悪を感じたりと、常にイエス・ノーという明確な答えを持っているように思える。
どうだろ、常に、言い切ってもいいかな、いいか。いい。

久しぶりに会った友人との違和感、2時間そこらで埋まったり、埋まらなかったり、
でも、わたしたちには積み上げてきたものがあるから、と、変化に対応していく自由さを持っている。

結局のところ、この人は、という何か確信を持っていれば、どれほど時間が経っていようが、顔を合わせ、その人の存在を感じ、同じ場を共有しているうちに、気持ちが寄り添っていく。
その感覚を感じる。

そういうささやかな営みがいわゆる友情であり、私は今、それをとても温かく感じるし、心底自分の友達のことが好きだなぁと感じる。
わたしが長くつきあっている友人たちは、みんな本当に、お世辞抜きにすてきな人ばかりだから、こうして大人になったからこそ、(多分そういうことなのだろう)それを含むところなく心の底から愛しく思えるようになったけど、そりゃあ若い頃は、今よりもっともっと自信もなかったし、コンプレックスだって抱えきれないくらい背負っていたから、うらやましく思って卑屈になったり、眩しくて一緒にいるのがつらくなった頃もあった。

結局何がいいたいかというと、特に誰かに何かを伝えたいわけではなく、あたまに浮かぶことをそのままリアルタイムに文章に起こしているだけで、深い意味は何もないです。

自分が選んできた人、っていうとひどいいい方だけど、でも今自分を取り巻いているものっていうのは、つきつめれば親兄弟以外は全部自分で選びとってきたものだと思うのです。
何を選ぶべきかは、いや、選びたいかは、自分が知ってるはずだから、自分に聞くしかないのですね。