2008/06/28

朝の雑談 =レベル感について=

『ノルウェイの森』は、大学入ってすぐくらいの頃から30目前の今に至るまで、何度となく読んでいるが、それは、わたしが相も変わらずおんなじところをぐるぐるぐるぐる迷走しているわけではまったくなく、『ノルウェイの森』には、「段階的ヒント」、少なくともひとりの人間であるわたしが、20代を生きる数年の間、その時々に応じて、さまざまなヒントを与えてくれる、まるで、子供の成長に合わせて椅子の高さを調整できる学習椅子のような存在なのだ。
この本について、「暗い」とか「重い」とかいうコトバを聞くにつれ、ああなんと表層的な部分で字面を追っているだけの軽薄なことよ!と、おせっかいながらに感じてしまうのである。

なーんて、また、いつもの癖で、いろんなことが言いたくなってきてしまいました。

結局、文学部癖みたいなのがいつまでたってもぬけないのよね、でも、大学生みたいに、喫茶店で顔つっつきあわせながら、何かについて、深いところまで入っていって話し合う、こういうの、今でもたまにはしたいよ。
そこに居合わせた人々が、違う意見を持っていて大いに結構。
でも、ここでいう、「深いところ」のレベル感は共有してたい。
「今、どこのレベルで話しているか」というのが通じていないと、その場にいるのでさえ、ばかばかしくなってしまう。
これを共有できる人はとても少ないけれど、出会ってしまうと、すごくすごくすごくうれしくなるし、一生つきあいたいとすんなり思うし、きっとそうなる。
幸せなことに、そういう友人が何人かいます。

なんていうか、そのレベル感がズレる相手と、無駄な話をぐだぐだするくらいなら、自分のそういうい部分にとりあえずの蓋をして、縦方向に掘り進めることなど最初からしないつもりで、ただただ楽しい話を楽しくしてるだけの方がよっっぽど気持ちがいい。
こういうあっさりしたつきあいも大切なのだ。
でも、常に一緒にいるべきごくごく近しい相手には、それだけだとちょっと、と思ってしまう。

そうなのよ、常に一緒にいるべきごくごく近しい相手には求めるべきは、価値観なのか?感性なのか?とか、さんざん考えていたけど、「レベル感を共有できること」、これがわたしにとっては何よりも大切なんですね。

今、ベランダから見える、斜め左の家の庭に立っている枇杷の大木には、オレンジ色のまるい枇杷が重そうなくらい実をつけていて、そういやここに引っ越してきたばっかりのときも、こんな時期だったっけな、と思い出す。
朝、尾長鳥がうるさいの。
それで寝不足になってしまうくらい。
鳥よ、頼むから、もう少し遅めの朝食をとってくれないか、本気でそう思います。

そうそう、コレコレ。
今、どこの段階での話をしているのか、
ここを共有できる人。
こういう人がわたしはすきだ!

ダース